佐原の歴史と町並み

(古代・中世)

佐原の歴史は古代から見ることができる。大和朝廷が日本を統一する際、東の最前基地として香取神宮、鹿島神宮を重要視したことは、927年の「延喜式」神名帳に、この両社のみに「神宮」を称し、優越した地位を与えていたことでも窺える。
この地の北には、「香取の浦」と称する内海が開け、古代から中世の時代には重要な交通・物流手段となり、ここを征する者が強大な権力を得た。香取大禰宜家文書「海夫の注文」(1368年)には、香取神宮が海夫を支配する権利を得ていたことが記されている。
中世の武家社会(千葉一族)においても初期の佐原は、香取神宮を中心とする農村集落であったが、後には商工業が発達し町組みなど都市的な機能を持つ地域へ発展した。

(近世)

戦国時代には、新宿側に定期的な市「六斎市」が許可されており、それまでの自給自足の生活から商品経済の時代に入ったことが窺える。この流れは、江戸時代に入ると益々加速して商業や流通に大きな変革をもたらした。1742年の「佐原村三宿市場見世賃書上帳」には、上宿市68人、中宿市77人、下宿市27人の出店があり、かなりの賑わいをみせていたことがわかる。町組みも六斎市が開かれた時代には5組であったものが、江戸時代中期には本宿11町内、新宿14町内となり、ほぼ現状の町内組織が出来上がっている。
繁栄は、「利根川東遷」による舟運と「十六島」をはじめとする広大な生産・消費地を背景にしたもので、「お江戸みたけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸優り」と里謡が広まるほどであった。江戸との交流は経済ばかりでなく高い文化も持ち込み、山車祭りや伊能忠敬等の学者を輩出することにも繋がった。

(近・現代)

舟運・商業で繁栄を極めた佐原の町は、明治時代以降も隆盛が続き、物流が自動車輸送に変わる昭和40年頃まで繁栄が続いた。その後、輸送手段や物品販売の形態が変わると段階的に急速に衰退し、商業的地位を失っていった。
鉄道の開通した明治31年以降昭和30年頃まで地域の物資は、舟や車で佐原駅に集められ出荷された。佐原駅の貨物取扱量は、大正時代がピークで近隣を凌ぐものであった。この時期の商圏は、今日の成田市から鹿嶋市まで半径30km・30万人にも及ぶものであった。 佐原のまちの中心は、昭和30年頃まで香取街道と小野川沿いであったが、その後駅周辺に移り、現在は国道沿いの新市街地に移っている。

水運で発展した江戸情緒あふれる町並み

佐原は北総の小江戸」と呼ばれています。 利根川を背景に江戸へ物資を運び、分流の小野川周辺には、河港となり旅館や商店が立ち並んでいました。 小野川沿いや香取街道には重厚な木造建築が軒を連ねています。